韓国・朝鮮人元BC級戦犯者に補償を

本文へジャンプ
 


韓国人戦犯者・洪起聖の手記

理論編集部編『壁あつき部屋』理論社、一九五三年刊掲載
本名 洪起聖 マレー収容所勤務 (手記では金起聖のペンネーム)
英国裁判一九四六年一〇月二九日終身刑。一九五五年九月二三日仮釈放
韓国に帰国後、孤児院院長等を務めるが、のち一九八〇年に自殺。


朝鮮人なるがゆえに

金 起 聖
三十一才 元陸軍軍属傭人 学徒出身 絞首刑を宣告され終身禁固に確定 シンガポール地区

 W兄へ。
 やっとあなたに手紙をかくことができます。長いあいだ、たまったことを一時にかきますから、少し長くなるかもしれませんが、どうか終りまでよんで下さい。
 私は一九四二年の六月、日本軍隊に入りました。「志願」という形式ではありましたが、実質的には、「徴用」でした。それも「日本人」として協力をしいられたのでしたが、現在のような境遇になって、ふりかえってみると、なんともいえない悲しい気持になります。
 はじめの約束は二ヵ年ということでした。別に証文をもらったわけではありませんが、入るとき、はっきり言明されました。事実、私といっしょに募集されて、朝鮮で勤務したものは、きっちり二ヵ年で交代帰郷したのです。ところが南方へおくられた私には約束がはたされず、終戦まで現地に残されました。これは戦況上やむをえない事情もあったのでしょうが、これが、私の運命を大きく左右することになってしまいました。
 まず私は、釜山西面野口部隊で、二ヵ月の軍隊教育をうけました。そこでの教育方針は、「朝鮮人を一人前の日本の軍隊に仕上げる」いわゆる軍人精神の注入で、軍人勅諭のほかに、「上長の命令は、そのことの如何を問わず直ちに服従すべきこと」というような「軍属読法」があり、訓練は非常にきびしいものでした。実をいえば私は、日本軍隊の強い(?)そしてよい面を多くきかされていたので、自分らにかけていると思われる集団生活の規律訓練が、軍隊でやしなわれるものと、ほのかな期待をもって入ったのでしたが、あまりにきびしい非人間的な制裁や、なぐられずくめの教育には、少なからず失望しました。
 しかし、私が何よりも残念に思ったのは、朝鮮人としての私にむけられる、日本人の差別観でした。たとえば、一日のうちに数えられぬぐらい会うUという一等兵に、そのつど敬礼せねばならぬところ、うっかりして一回だけ欠礼したら、「きさまは朝鮮人のくせに生意気だ。おれをなめてるな!」と、どえらくなぐられました。そのときは、口の中が砕かれて、数日間ろくに食事ができませんでした。しかしこれはまだよい方で、「朝鮮人が日本の兵隊さんになれるんだから、がまんせよ」といっては、朝鮮語でかいた日記帳までとりあげられるのです。植民地人民の悲しさを、星空をながめて、幾度なげいたかしれません。
 このなげきは南方へいってからもつづきましたが、こうしたやばんな教育が、私に植えつけたものは何であったでしょうか。制裁として、部下をなぐることを、何とも思わなくなってしまい、それが私の、俘虜に対する行為にも現れるようになってしまったのです。もしもその当時、俘虜をなぐった者が処罰されるようにでもなっていたならば、恐らく私も現在のような境遇におちこまずにすんでいたでしょう。
 私たちは、軍属傭人として、軍隊のなかでは二等兵に対しても常に敬礼しなければならない最下級の地位におかれながら、課せられた任務は大きなものでした。俘虜収容所には、一般に日本人としては将校と下士官だけで、それも数が少ないところから、直接の俘虜監視はもとより、衛兵所勤務、所内作業の指揮、給養、衛生掛の助手、労務の割りあて、庶務、通訳など、いろいろな方面の任務(上級者がやるべきものまで)が、私たちに与えられました。
 俘虜の数は大へん多く、中には性質のよくない者もいるし、言葉も通じない私たちが、それらをふくめて規律をまもってゆくのは容易ではありません。ですから時にはなぐることもありましたが、そうすると、たださえ不自由な生活をしている俘虜たちの日ごろのすべての不満が、私たちに集中してむけられてくるのでした。
 また反対に、私たちが俘虜に同情をしめすと、こんどは日本人である上官が、「俘虜は皇軍が生命をすてて捕えた大事な戦利品だぞ」としかるし、間にはさまれている者のつらさは、言語に絶するものがあったのです。
 そして、その結果が戦犯であります。
 戦犯といえば、世間の人々は、どんな悪虐非道なことをしたのだろう、と思われるかもしれませんが、しかしその「残虐行為」の正体は、せいぜいのところ殴打なのです。それも理由なしに行われたのではなく、いずれも先にのべたような情況の下に行われたにすぎません。
 もちろん人をなぐるのは悪いことです。また、そんな空気にまきこまれたことは遺憾に思います。しかしそれよりも、単なる殴打を針小棒大に誇張したり、それをうらみに、私たちの責任でもない給養や衛生など、収容所管理の一般的な責任までおわせ、甚だしきにいたっては全然おぼえのないことまでおしかぶせて、虐待、非人道行為、傷害致死、計画的謀殺、等々の恐ろしい罪名をかぶせて重刑を課することの方が、はるかに悪いことであり、遺憾なことではないでしょうか。
 南方関係で戦犯にとわれたものの多くが、泰緬鉄道建設とか、スマトラ縦断鉄道建設とか、あるいはアンボン飛行場建設のような、特に瘴癘のジャングル地帯や離れ小島での建設作業に従事したものである、という事実もまた、見のがせない悲運の一つだと思います。比較的にめぐまれた都会地での勤務者は、終戦後ぶじに帰国したのに、戦争中もっとも辛酸をなめた私たちの方が、その上戦犯にとわれたのであります。このことは、一方において、そういうところにいた俘虜の苦痛が特に大きく、従ってその不満も大きかったことを示していますと同時に、他方私たちもまた苦しく切迫した情況におかれていたために、気持も平静を失いがちであり、そこから、おたがいに、思わざる鋭いまさつを引きおこさせられてしまった、と考えられないでしょうか。当時の私たちの行動を支配していたものが、私たち個人の性格などというものではなく、当時のせっぱつまった一般的な情況であり、またそういう情況から出された軍隊命令であったことを考慮して下さい。

 ここで、私が戦犯にとわれた、いわゆる「事件」の内容や、裁判のもようについて少し書きます。
 三千名を収容している俘虜収容所の飲料水源は、わずかにはばが一メートル、ふかさが十センチぐらいの小川で、水量も少く、それがまた泥土の上を流れるので、少しでもかきまわすと、すぐ黄色くにごってしまうのでした。そこで、ある地点をせきとめて、そこにくみあげ式濾過ポンプをすえつけ、その地点から川上では水浴してはいけない、と禁止してありました。
 ところがある日、そこにいってみると、数名の俘虜が、知らん顔をして、ところもあろうに水たまりで水浴しているではありませんか。あんまりひどすぎるので、カァッとなりましたが、それでもぐっとこらえて、「はやく川下にうつるように」と、指先で下流の方をさししめしました。その後、注意してみていると、とてもひんぱんにポンプが故障をおこすのでした。すると上官は、きびしく私を叱ります。
 非常にこまった私は、それからその原因をいろいろさがしてみましたら、実は俘虜たちは、監視員である私を逆に監視して、私の目をかすめては、水たまりであわてて水浴するので、よけいに水がにごりその結果ポンプの故障がひん発するのでした。
 そのうちに、やっと一人の不心得者を現場でみつけることができましたので、彼に、
 「お前がここで水浴をするからポンプがよくこわれ、お前たちは泥水をのむようになるではないか。」
 と、いくらおだやかにいってきかせても、そっぽをむいて、「何をいってるんだ」といった態度をしめしますので、川底のどろを指先ですこしすくいあげ、彼の口の中にいれてやって、
 「こんなどろを飲んでもよいのか!」
 とききました。すると彼は実にいやな顔をして、ペッペッと地べたにつばをはきつづけるのでした。そのようすを見ていると、私自身が非常にさびしく悲しくなりました。そして、人が人を監視することがいかに困難な仕事であり、また、いやな仕事であるかをつくずく感じさせられました。
 それから私はすぐ彼をつれて、私の宿舎にかえり、大事にしまっておいた歯ブラシと歯みがき粉(長いジャングル生活をしていた私にとっては、このような日用品でさえ大事なものでした)を彼にあたえ、炊事場にいってお湯をくんでやりながら、口中をきれいに洗わしたのでした。もちろんコレラ菌など、口中にくっついているはずがありません。
 しかしこの事件が、起訴状にかかれたときには、こうなっていました。
 「金は、俘虜を計画的に謀殺しようとして、コレラ菌のうようよしている、きたない泥土を、俘虜の口中に入れてまわった!」
 このような彼らが、こんど私が戦犯容疑者として、チャンギー刑務所に入れられたとき、どんな取りあつかいをしたかも少しかきましょう。
 それは、やけつくような、ある暑い日の午後でした。私は、獄塀にそって流れている、きたない溝を掃除していました。すると、一人の監視兵がやってきて、私を頭のてっぺんから爪先までにらみつけてから、私といっしょに働いていた二人の仲間を他の作業場においやり、今まで三人でやっていた仕事を、私一人でしろというのでした。私は何もいわずに、いわれた通り、砂や石ころや空罐などを、せっせとショベルでかきあげては、土手の上に投げました。しかし、それを三十分やっても、いっこうに仕事ははかどりません。そのはずで、私はその日の朝も、いつもの朝とおなじく、たったビスケット二枚に、野生の野菜を少しうかべた塩汁を一ぱいたべたきりで、すでに六時間以上も働かされていたのです。暑さは暑いし、もう目まいがして、手足もくたくたにつかれ、体をささえるのがやっとでしたから、働こうにも働けなかったのでした。
 すると監視兵は、ふらつく頭、肉のおちた肩を棒でなぐり、もっと馬力をだせとせめるのでした。しかし、どうして一人で三人前の仕事ができましょう。そこで、「いま腹がへってて、思うように働けないから、かんべんして下さい」といいましたら、彼はニヤッと笑って、「では、腹を一ぱいにしてやるからついてこい」といいながら、衛兵所にむかって歩きだしました。
 衛兵所につくと、彼はその時の衛兵司令の軍曹に、何やらペチャクチャ話しました。すると、そばに居あわせた者たちまでが、どっと笑いこけました。そして彼は、笑いもとれない顔を私の方にむけて、衛兵所の隣りにある水浴場をあごでさしながら、その中に入るようにとのことでした。
 -はてな、何をあんな所で食わすつもりだろう。もしかしたら、巡察にでも見つかった時こまるから、カムフラージュかな-
 こんなことを、とっさの間に考えながら水浴場に入りますと、彼は、壁のところの水道の蛇口を棒でさしながら、それを口にくわえろと命令するのでした。そこで、水なら先ほどうんと飲んだから、今はほしくないといいますと、彼は、猫のような目を異様に光らして、そばにやってきたかと思うと、私のやせ細った足を、あのガンジョウな軍靴の先でけとばすのでした。それは棒でなぐるよりも、もっとたまらない痛さでしたので、私は水道の蛇口を、それこそ毒蛇の頭でもくわえる思いで、口にくわえました。すると彼はコックをシューッとひねりました。はじめのうちは少し飲みましたが、息がつまって、とてもつづけては飲めませんので口を離すと、またけってくるのでした。こんなことをくり返すうちに、腹は蛙のようにふくれました。どうしてもそれ以上は飲めなくなると、捨て身の気持になって、ゆっくり口を離し、コウ然と彼をにらみつけてやりました。すると彼は、みにくい顔を、よけいに物すごくひきゆがめて、右手の棒を高くかまえました。その瞬間、何かこう火にやけた鉛のたまでも頭にくらったような、熱さと重みを同時に感じました。
 それからどうなったかは知りませんが、あまり頭がずきんずきん痛むので、目をあけてみると、うすぐらい獄房のコンクリートの上に、なげこまれていたのでした。頭には、ざくろの実をわったような傷ができ、あたりには相当の血が流れていました。その後つづいた三、四日間の気持のわるい頭痛も忘れられませんが、もっと忘れられないのは、それから二日目に、東南アジア戦犯調査委員会の調査官がきて、私の署名をとっていったことです。何のために私の署名をとったかは、それから数ヵ月してわかりました。それは私に「絞首刑に処す」と宣告せんがためでした。
 この外にも、いろいろかきたいことはありますが、またの機会にゆずります。
 ついでに、私たち韓国人の裁判では、充分な弁護人に恵まれなかったことを、つけ加えておきます。もちろん戦犯にとわれた容疑者のすべてが、日本人たると韓国人たるとをとわず、弁護人に恵まれなかったこと、いいかえれば弁護を担当された方々がみな、証人申請や証拠の蒐集や、その他必要な弁護活動において、ひどく制肘されたのでありますが、それとは別に、とりわけ私たち韓国人の場合は、軍隊での最下級者であったがために、また弁護人である日本人の方とは民族を異にするがために、ややもすれば軽んぜられた傾向がみられました。そのことは必ずしもひがみばかりではないと思われますので、感じたことを卒直にかいて、裁判当時の、やりばのない不安な気持の一端をお察し願いたいのです。

 こうして、戦犯者として処断されたときの私たちの気持は、何と申しあげていいか、非常に複雑な、そして深刻なものでありました。いかに不完全な人間のする裁判とはいいながら、あまりに納得のいきかねることばかりです。しかしその点では日本人戦犯でも共通しているのですが、その上、韓国人には、たえきれないほどの苦しみが一つありました。
 それは、日本人ならば、周囲からいかに非難され罵倒されても、最後には、「自分たちは、身をもって祖国のためにつくしたのだ」という、なぐさめといいますか、ほこりといいますか、またはあきらめといいますか、そういったものを持つことができましたろうのに、私たち韓国人には、そうしたなぐさめすら持てるみちがなかったということです。なぐさめどころではありません。そういう風に考えようとすることが、それこそ胸をやきつくすような、悔恨そのものに外ならなかったのであります。
 将来を失っても、まだ過去だけでも持つことのできる者は幸福です。私たちは、過去も未来も一挙に失ってしまったのです。思いだしても、何のなぐさめにもならない、いまわしい呪われた過去-。都合のいいときは日本人とよばれるかと思えば、また別な場合には朝鮮人として軽べつされ、またある時には軍人として持ちあげられるかと思えば、あるときには軍属傭人としてはずかしめられながら、ともかくも当時の日本が理想とする所のみを見つめさせられるきびしい命令のままに、日本のためにつくしてきた過去が、私たちにとって最も苦しい思い出となったこと、従って私たちとしては、一刻も早くそのような過去を、自分の身辺からふり落してしまいたかったのです。それにもかかわらず、戦犯という烙印は、つねに私たちを、そのいまわしい過去へむすびつけているではありませんか。
 また、もしも私たち韓国人に頼るものがあるとすれば、それは、終戦と同時に日本から解放されて、独立した光復国として新出発した祖国に対する、祈りともいうべきものであったのです。しかしこの場合にも、自分たちの過去をかえりみて、同胞が私たちをどんな眼でみるだろうかと思い、この切なる祈りが、ほとんど理解されないのではないかと思うと、ほんとうにさびしい絶望的な気持になってしまいます。こうして、再興祖国の将来にしがみつこうとする私たちの手も、ともすればゆるみがちなのです。このような状態で絞首台上に引かれていった友人のことを思えば、霊は文字通り宙に迷っているのではないかと、いても立ってもいられません。
 しかし考えてみれば、その時としては、死ぬということが、唯一つ私に残された道であったかもしれません。そして幾たびか、私もそれを考えました。獄房のコンクリートの壁に、血のでるほど頭をぶつけたこともあります。タオルで首をしめて、目に真赤な幕が落される経験も一、二度ではありません。なかには、自ら首をかき切ろうとしてはたさず、今なおその傷あとをとどめているものもあります。
 こういう暗い絶望と苦しみのなかに、こんにちまで生きながらえてきたのは、なぜでありましょうか。もちろん本能的な生への執着ということでもありましょうが、そのほかに、前に申しましたような自分の生まれた、祖先の墓のある祖国に対する祈りや、特に自分をまっている、肉親や同胞に対する愛着が、重要な要素であったことは申すまでもありません。
 従って、一九五〇年六月に、突如ぼっ発した故国の動乱が、私たちにあたえたショックは非常なものでありました。監獄のなかにいる私たちには、その事情は勿論はっきりとはわかりませんが、同胞が殺りくしあうというだけで、大国の間にはさまれた弱小民族の運命と申しますか、私たちの国がおわされた歴史的な宿命の悲哀を、痛切に感ぜしめるに充分でした。
 特に心配なのは家族のことです。戦線が自分の故郷にせまってきたことを新聞でみた時などは、一睡もできぬような夜がつづきました。そうするうちに、細々ながら便りを通じて、戦乱の様子や、家族の状態がわかってきましたが、いずれも想像をこえたひどいもので、中には、こんな手紙をもらって、気も狂わんばかりにもだえているものもおります。
 「お父さん、私は今日で五日もめしを頂いていません。先日おばあさんから、餅でも一つ買って食べなさいと、お金を頂きましたが、私はその金で切手をかって、お父さまに手紙をかくのです。お父さまはいつおかえりになりますか。早くかえって、たすけて下さい。」(九つの子供から)
 「年老いたこの母が死ぬことによって、あなたが出獄できるのでしたら、母はいつ死んでもよいのです。早く帰って、おさない孫たちをたすけて下さい。」(七十いくつの老母より)
 また中には、夫が戦犯にとわれたことを知って、投身自殺をした若い妻もいます。しかし、私たちにはどうすることもできません。ただ不安と焦燥と絶望のうちに、泣いたり、怒ったり、わめいたり、あるいは茫然として自分を失ってしまったり、ただ悶々のあけくれです。このような私たちが、「何が僕らをこんな目にあわせたか」を問うとしても、誰もそれをとがめることはできますまい。それは私たちにとっても苦しいことです。苦しい過去を思いだすことです。その過去は日本軍に協力させられた、今の運命の発端となった過去です。もっとさかのぼれば、それは祖国をうばわれた者の過去であり、その祖国をうばい返すだけの力をもたなかったものの、痛ましい屈辱の過去です。
 そして、今むかえている現在は、その心弱さの当然のむくいなのでしょうか。自分が一生けんめいに忠義させられた国の戦犯として、その国の政府によってかんきんされている終身禁錮囚の私であり、他国の砲弾爆弾で焼土にさせられつつある煉獄の祖国であります。私には、もう神への信仰ももてません。
 この手紙をかき続ける私の眼の前に、ちらついてやまぬのは、あなたと親しかった趙文相兄のおもかげです。彼も私と同じく俘虜監視員に徴用され、泰緬鉄道建設工事に従事したがゆえに戦犯にとわれ、死刑を宣告され、私と三ヵ月間起居を共にしましたが、幸か不幸か彼は昇天し、私は未だに地上にうごめいています。その趙文相兄が、絞首台に上る寸前までかき続けて私に託した手記のなかに、つぎのような一節がありました。
 「あわただしい二十六年間、本当に夢の間にすぎた。この短い一生のあいだ、自分は何をしてきたか。猿まねと虚妄。なぜもう少し自分らしく生きなかったか。たとえおろかでも不幸でも、自分のものといえた生活をしていたらよかったものを。知識がなんだ、思想がなんだ、少なくとも自分のそれは、ほとんど他人からの借りものであった。しかも、それを自分のものとばかり思っていたとは、何とあわれなるかなだ。友よ! 弟よ! おのれの知恵で、おのれの思想をもたれよ。-自分はいま死を前にして、自分のもののほとんどないことに、あきれている!」
 あまり長たらしく自分たちのことばかりかきましたので、こんどはこれで失礼さして頂きます。
 あなたの健康と平安を祈念しつつ。(一九五二年八月五日)



   
inserted by FC2 system