韓国・朝鮮人元BC級戦犯者に補償を

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1.捕虜監視員としての動員


 1942年5月、陸軍省は、捕虜の警戒・取締りのため朝鮮人・台湾人による特殊部隊編制を計画。捕虜収容所監視員の募集を新聞などでも喧伝して実施した。対象は20~35歳、2年契約の「軍属傭人」という身分だった。建前は志願だが、役人や巡査を動員して強制的に行われたケースも多く、1ヶ月間で朝鮮半島だけで各地から3千人以上が集められた。
 釜山の「臨時軍属教育隊(野口部隊)」で3223人が2ヶ月間厳しい軍事訓練を受け、後に3016人が南方に派遣された。陸軍省が発表した「俘虜処理要領」は、白人捕虜を軍事上の労役に利用することを旨とし、東条英機陸相は「一日といえども無為徒食せしめることなく」労力を活用するよう訓示していた。捕虜監視員に、捕虜取り扱いに関するジュネーブ条約はまったく教えられず、条約の存在すら知らされていなかった。

 日常的に捕虜を処遇し、逃亡防止の為に監視するものと解されていた捕虜監視員の業務の実際は、食糧も薬品も欠乏した状況の下で、栄養失調や病気でやせ細った捕虜を上官の命令により鉄道・道路・飛行場の現場に連れて行き監視するという過酷なものであった。国際条約に違反する捕虜政策の最前線に配置された韓国・朝鮮人捕虜監視員は、上官の命令に抗うことを許さない皇軍の最末端にあり、また一方では、捕虜の実情を一番身近に知る立場でもあった。しかし、彼らには食糧・医薬品などについての権限は何ら与えられていなかったのである。契約の2年が過ぎても、祖国に帰されることもなく、ついに日本敗戦の日を迎える。

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↑2カ月の訓練を終え、捕虜監視員になりたての朝鮮人軍属たち。つかの間の外出許可がおりた際に撮られた写真であることが、腕章からわかる。前列右下が、戦後補償裁判の原告のひとり、故・文済行さん。戦犯として逮捕されたとき、所持品はすべて押収されたが故国の家族に送っていた数枚の写真だけが現在も手許に残っている。

 



   
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