韓国・朝鮮人元BC級戦犯者に補償を

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李鶴来「同進会」会長の逝去を受けてのコメント


 328日、韓国・朝鮮人元BC級戦犯者「同進会」の李鶴来会長が逝去されました。96歳でした。
 李鶴来さんは、日本の戦争責任を負う形でBC級戦犯となり死刑判決を受けましたが、その後減刑。戦後は、同じ境遇の韓国・朝鮮人元戦犯者仲間と共に「同進会」を結成し、日本政府の対応を求め、訴え続けてきました。
 私たち「同進会」を応援する会は、立法実現を見ぬまま最後の当事者、李鶴来さんを見送らねばならなかったことに、深い悲しみと申し訳なさを覚えずにはいられません。

 李鶴来さんは1925年、日本の支配下にあった朝鮮・全羅南道宝城に生まれました。
 日本がアジア太平洋戦争に突入した
194112月、日本軍は緒戦の勝利で多数の連合国軍捕虜を得ますが、日本軍は捕虜監視員を朝鮮・台湾の青年から募集。朝鮮からは約3000名が、タイ、ジャワ、マレーなどに送られました。当時17歳だった李鶴来さんは泰緬鉄道の建設現場に配置されますが、2年の契約は守られることなく、そのまま敗戦を迎えます。
 戦後、連合国は戦争裁判で、日本軍の「捕虜虐待」を厳しく裁きました。しかし、捕虜の使役や食糧・医薬品の不足に対し、何の権限もない最末端の軍属にできることは限られていました。問われるべきは日本政府と軍の捕虜政策でしたが、148名の韓国・朝鮮人が戦犯となり(刑死者23名)、うち129人が捕虜監視員(刑死者14名)でした。
 彼らは罪は「日本人」として負い、しかし1952年のサンフランシスコ平和条約発効後は、「外国人」として一切の援護から排除されました。生活苦から2名が自殺しています。

 李鶴来さんが最後まで願ったのは、刑死者に報いてほしい、ということでした。生き残った者には、運動の結果いくばくかの生業資金などを引き出すことはできましたが、日本政府は刑死者には何もしていません。「誰のために、何のために死ななければならなかったのか」――死刑囚として8カ月間過ごした李鶴来さんはその無念を自らに引き受け、闘い続けました。そして、日本人の道義心に最後まで期待をしていました
 不条理をただすための法案は準備されていました。しかし日本は李鶴来さんの生前にそれに応えませんでした。遅きに失しましたが、不条理はいまからでもただされるべきと一層強く願います。

 李鶴来さんの遺影に、それでも事態は動きました、と報告できる日が一日も早く来るよう、引き続き関係の皆様方のご尽力を強くお願い申し上げます。
 李鶴来さんの逝去を悼み、心よりお悔やみ申し上げます。本当に長い間、本当にお疲れ様でした。遺志を引き継ぎ、私どもの働きを続けることを誓います。


2021329
                                                               「同進会」を応援する会 代表 内海愛子

 

 

   
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