韓国・朝鮮人元BC級戦犯者に補償を

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2.戦犯裁判と戦犯刑務所での日々


 45年10月~51年4月にかけて、南方各地でBC級戦犯裁判が開かれた。これらの裁判には、以下のような問題点があった。

1)
 裁判は、捕虜の「宣誓口述書」(告発文書)に基づいて進められたが、それらはきわめて  不備の多いものだった。また、過酷な捕虜政策を立案・命令した責任ある立場の日本人将校よりも、軍隊の最下層で捕虜と日常的に接触していた朝鮮人・台湾人監視員に非難が集中した。

2)
 多くの場合、裁判官は連合国の軍人であり、いわば紛争の当事者であった。また、46年前半まで日本からの弁護士の派遣はほとんど認められず、日本語通訳も不足、朝鮮人と台湾人については母語の通訳はいっさいいなかった。

3)
 「宣誓口述書」を書いた捕虜の大半は裁判開始前に帰国してしまい、裁判では彼らへの反対尋問はできなかった。本人が帰国した後、「宣誓口述書」の内容が捏造された例もあった。また、被告には弁明の機会がなく、しかも一審だけで判決が確定してしまい、異議申し立てもできなかった。

4)
 裁く側の連合国自身が植民地宗主国であったため、日本の植民地支配下におかれた朝鮮人・台湾人の苦悩に対する理解をまったく欠いていた。朝鮮人・台湾人が、不当な命令への服従を強いられた被害者であるという視点は皆無であり、日本人同様に裁かれた。

 裁判の結果、朝鮮人148人(捕虜監視員は129人)が有罪となり、うち23人が、日本の戦争責任を肩代わりさせられ処刑された。

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↑シンガポールのチャンギ刑務所




 戦犯容疑者とされた朝鮮人監視員たちは、日本人の戦犯容疑者とともにシンガポール・チャンギー収容所などに集められた。連合軍は、報復のため「餓死しない程度」の食糧しか与えず、リンチも横行、暴行による死者も出た。
 裁判がおこなわれ、判決が確定すると、彼らは死刑囚房(Pホール)・有期刑囚房(Dホール)に収監された。獄内では、高温熱帯の悪環境に加え、「生かさず、殺さず」程度の食糧しか与えられず激しい飢餓感におそわれた。さらに、故郷で同胞が解放のよろこびを謳歌している時に、自分だけが「対日協力者」として刑務所にいることへの民族的負い目、郷里の家族らの苦しみを想像した時のはりさけそうな胸の痛み、さまざまな想いが去来し、苦悩にさいなまれる日々が続いた。特にPホールでは、なぜ、何のために自分が死ななければならないのか、虚しい自問自答を繰り返した。処刑は、ほとんどの場合、入所してから3ヶ月以内に行なわれた。彼らは、その宣告を恐怖とともに待ちながら、先に処刑される仲間をいくたびも見送った。シンガポール・チャンギー刑務所のPホールでは、絞首台の死刑囚のいまわの叫びや、跳ね板がはずされ処刑が執行される音などがはっきりと聞き取れた。
 有期刑の「戦犯者」は、ほとんどがその後日本のスガモ・プリズンに移送された。当時日本は連合軍によって占領されていたため、スガモ・プリズンは米軍の管理下にあったが、1952年4月サンフランシスコ講和条約が発効すると、管理は日本政府の手に移った。この時を境に、日本政府は韓国・朝鮮人の日本国籍を一方的に喪失させた。同条約では、日本人戦犯者の刑の執行を日本政府が継続することが定められていたが、朝鮮人・台湾人はこの限りではなかった。このため同年6月、韓国・朝鮮人と台湾人のBC級戦犯者は、釈放を獄中から訴え裁判をおこした。だが、1ヶ月後最高裁判所はこの請求を棄却。「刑を受けた時は日本人だったから」というのがその理由であった。
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↑オートラム刑務所から日本へ移送される直前の戦犯たち。

【外部へのリンク】
・「〈物〉が語る歴史 第3部⑥ 戦犯刑務所でのタオル」(民団新聞2006年10月18日)

 



   
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